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多発性嚢胞腎が原疾患で透析に入って25年です。

by マーゴ

2010年 01月 17日 ( 1 )

1995.1.17. 5:46

大阪・白鷺病院のベッドの上にいた。
シャントが潰れて、動脈と静脈の表在化手術をして、
太ももの鼠蹊部の静脈に挿れていた
ダブルルーメンを抜く予定の日だった。

何故か目が醒めて、ベッドで半身起き上がっていた。
揺れで目が醒めたのか、物音で目が醒めたのか
記憶が定かではない。
病室には私と痴呆症の高齢女性の2人だけだった。
私は呆然と、サイドテーブルに括りつけてあったTVが
落ちないか眺めていた。
括りつけてあるので落ちる筈ないのだけれど。
頭の中は、この揺れは、
その内、止むやろうと漠然と考えていた。
目が醒めるほどなのだから、結構な揺れだった。
しかし、何もせずに、話しかける人もいない状態で、
一人呆然としている他ない。

揺れが収まったところで、
看護師さんがバタバタと走ってくる気配がして
引き戸になっていた扉を開けて、「大丈夫ですか?」
「はい」と応じると、次の部屋に。
部屋の外は以外なほど静かだった。
そのとき、扉は開いていたのに、
地震で閉まったのだと気付いた。
地震では、とにかく室内から飛び出さないと、
部屋が閉まってしまうのだ。
立て付けが悪いと、運が悪いと密閉されてしまうのではないかと、
感じた。

時間とともに、大変な地震が起きたことが解ってきて、
病院のあちらこちらの窓辺にたって、大阪市内はどうなっているのか
偵察してみた。
どの方角かは忘れてしまったけれど、2ヶ所で煙が上がっていた。

ダブルルーメンの抜去は担当医の先生は宝塚か箕面方面で、
地震で来られないということで、代わりのドクターが来てくださった。
午後になって担当医は来られて、「抜こか」と。
「もう抜いた」と、私。
「そうか」と部屋を出てゆかれた。
地震の話などしない。

やがて、宝塚に家があると言う看護師さんが来て、
家が倒壊してお父さんが亡くなったのだと、淡々と話してくれた。
余りにも冷静だったのだけれど、
ショックでそんな風にしか言えなかったのではないだろうか。
その後、彼女は見かけなくなってしまった。

多分翌日、透析をして部屋に戻ると、2人ベッドに寝ている!?
部屋を間違えたのかと、飛び出して部屋番号を確認したら
間違いなかった。
震災で通っていた病院が大破して、とぼとぼと道を歩きながら
透析施設を探していたところを救急車に救助されてきた人。
もう一人は、家の下敷きになり救助されてきた人。
たまたま、同じ透析病院に通っていた人が2人、同室になったのだと。
家の下敷きになった人は、クラッシュ症候群で、
背中が青紫に変色していたらしい。
救急車は1人しか搬送できないのだ。
阪神の殆どの透析施設で透析できなくなり、大阪に搬送されていた。
大変だったことだろう。
白鷺病院でも、当日は分院と称していた施設で水道施設が破壊され
透析できなくなり、新設していたが、
まだ透析していなかった施設を急遽稼働して対応したのだった。

地震でやむを得ず、よその施設にお世話になるときは
透析条件を知っているに越したことはないのだが、
恐らく、殆どの透析者は自分の透析条件を把握していないだろう。
まぁ、これは何とかなるにして、
処方されている薬を知らないのは困ったことになる。
赤い丸い薬とか、白い薬とか・・・・
薬の形状は覚えていても、なんの薬か、さっぱりピーマン状態。
医療側は薬のサンプルを見せて、なんとか把握しようと努力していた。
教訓=薬の名前はしっかり覚えておきたい。

家族とは連絡取れなくなっていたのだけれど、
どんな方法でか、1週間くらいで、家族が病院に現れた。
これには驚いた。

本日、NHKTVでは、震災15年特番をしていた。
震災を幼くて理解できなかった世代が、
震災を語り継ぐ活動をしている様子も伝えていた。
人と人との絆を通して、震災からの復興が可能だとのこと。
まだまだ、復興が出来たとは言えないようだけれど
若い人も参加しているのだから、20年後も30年後も活動を通して
新しい課題を見つけて、新しい街づくりに挑戦することでしょう。
by noblesse_oblige7 | 2010-01-17 17:19 | Trackback | Comments(2)